2016年10月4日火曜日

芸能文化研究会第六回研究会

第六回研究会のお知らせです。

来聴歓迎いたします。事前に以下のアドレスまでメールをいただけると幸いです。
geinoubunka〇gmail.com(〇を@に変えてください)

日時:2016年10月29日(土)14時~
会場:早稲田大学人間総合研究センター分室(27-8号館) 高田牧舎2階 (新宿区戸塚町1-101)




舘野太朗
 「大劇場時代の市川少女歌舞伎」
《要旨》
 市川少女歌舞伎は、太平洋戦争後に愛知県豊川市で結成された、少女だけで歌舞伎を演じる劇団である。同劇団は、1953年2月の三越劇場出演をきっかけに、東京の明治座、東横ホール、名古屋の御園座、京都の南座、大阪の四ツ橋文楽座、中座など、東西の大劇場に次々と進出を果たした。1962年に商業公演から撤退するまでのおよそ10年にわたって、少女(しかも地方出身の!)の演じる歌舞伎が、あらゆるジャンルの商業演劇に伍して大劇場で上演されていたのだ。一般的に歌舞伎は「男性の/大人の/家柄の俳優」によって演じられるものと考えられているが、市川少女歌舞伎はそれとは正反対の属性を持つ「女性の/子どもの/家柄でない俳優」によって演じられていたという点で特筆に値する。
 近年の演劇研究においては、「女役者」や「少女歌劇」などの女性の演じる演劇に注目が集まりつつあるが、市川少女歌舞伎に関しては研究対象として未開拓の部分が多い。少女歌劇と歌舞伎の関係に着目した画期的な論集である吉田弥生編著『歌舞伎と宝塚歌劇――相反する、密なる百年』(2014年、開成出版)では、同じく少女の演じる歌舞伎であった宝塚義太夫歌舞伎研究会が取り上げられていたが、残念ながら市川少女歌舞伎への言及は無かった。また、神山彰編『忘れられた演劇』(2014年、森話社)所収の藤井康生「演劇は忘れられる運命にある──戦後の演劇と劇場の変遷」では市川少女歌舞伎に関する記述があるが、同時代の観客の思い出に止まっている。学術的な論考としては、ローレン・エデルソン『ダンジュウロウズ・ガール』(Edelson, Loren. Danjuro’s Girls: Women on the Kabuki Stage. New York: Palgrave Macmillan, 2009)が現時点では唯一となっている。
 本報告では、まず、劇団員自身によって書かれた、市川升十郎『かぶき人生』(1983年、豊文堂)、市川梅香『まつば牡丹の記』(1993年、毎日新聞連載)、劇団員へのインタビューを中心に構成された黒川光弘『まぼろしの少女歌舞伎』(1984年、中日新聞連載)の記述を参照して劇団の概要を確認する。さらに、報告者の作成した市川少女歌舞伎上演年表を用いて、大劇場で上演された演目の傾向と変遷について考察を述べる。本報告を歌舞伎における、男性と女性、大人と子ども、都市と地方の関係を考えるきっかけとしたい。日本近代演劇デジタル・オーラル・ヒストリー・アーカイヴ(http://oraltheatrehistory.org/)で、報告者が取材者として関わった、劇団員の市川梅香、市川福升の聞き書きを公開している。事前に参照されたい。

高久舞(國學院大學研究開発推進機構研究開発推進センター客員研究員)
 「池田彌三郎を考える ―池田彌三郎の研究史―」
《要旨》
 本発表では、民俗芸能研究者としての池田彌三郎の業績を確認した上で、池田の「芸能伝承論」を再考することを目的とする。
 大正3年(1914)、銀座の老舗天ぷら屋「天金」の次男として生まれた池田は、昭和6年(1931)、慶應義塾大学経済学部予科に入学するが、3年後に文学部国文科に転科して折口信夫を師事する。昭和12年(1937)に文学部国文科を卒業し、戦後、慶応大学文学部講師、助教を経て教授に就任した。
 池田が折口民俗学を継承し論を展開していたことは自明のことであるが、言い換えれば、折口民俗学の解説者でもあった。その上で、独自の芸能伝承論を展開させようという意図もうかがえる。池田は『芸能と民俗学』(岩崎美術社、昭和47年)の中で、「わたしの芸能伝承論は、単なる行動、動作と芸術とのあいだに芸能をおき、どういう条件が、あるいはどういう制約が、芸能をその位置にとどまらしめているのかをみようとするところから出発した」と述べている。芸能とはなにか、芸術とはなにか、民俗芸能とはなにかを、池田彌三郎の研究史を踏まえて今一度考えてみたい。
《参考文献》
 『池田彌三郎著作集』(全10巻、角川書店、1979〜1980年)ほか

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2016年6月8日水曜日

芸能文化研究会第五回研究会

芸能文化研究会第五回研究会のお知らせです。
来聴歓迎いたします。事前に以下のアドレスまでメールをいただけると幸いです。
geinoubunka〇gmail.com(〇を@に変えてください)
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日時:2016年6月19日(日) 14:00~
於 :早稲田大学人間総合研究センター分室(27-8号館)
  高田牧舎2階 (新宿区戸塚町1-101)

報告1:菊田 祥子(成城大学大学院)
祭の見せ場は女が創る
 ―千葉県八日市場祇園祭女神輿を事例として―
 千葉県匝瑳市八日市場を中心に行われている八重垣神社祇園祭の女神輿は、管見の限り女だけで担ぐ神輿練りとして現存する最初期の1つである。
 本発表では、女神輿がはじまった昭和48年以降現在までの八重垣神社祇園祭の変遷を、女神輿に対する地域内からの視線の推移を含めて、開始時の担ぎ手からの聞き取りを中心に明らかにする。その上で、近隣地域の都市祭礼における女性の役割・意識と対照しながら、伝統的地域社会における男女間の非対照的な関係構造をなぞるにとどまらない、祭礼をめぐる地域内関係構造の可能性を提示したいと考えている。


報告2:中里 亮平
「日常化」からみる民俗芸能
―秋田県仙北市角館のお祭りにおける飾山囃子の事例から―
 本発表は、秋田県仙北市角館地区で行われる角館のお祭りにおいて行われる飾山囃子を事例に、民俗芸能を
「日常化」という概念で考察することの意義について考察するものである。
 飾山囃子は角館のお祭りにおいて山車の上で行われる民俗芸能であり、祭礼と密接に結びついている一方で、様々な機会に公演活動が行われ、学校のクラブ活動として取り入れられるなど、多様な展開をみせている。
 このような飾山囃子を「日常化」という祭礼研究の分野と関連した概念を用いて考察することで民俗芸能研究に新しい視点を取り入れることを目指す。


『演劇学論集』62





書評を書きました。
舘野太朗「書評 橋本裕之『震災と芸能―地域再生の原動力』『芸能的思考』―「体験を経験に昇華させる方法」と「演劇学という夢」」『演劇学論集』62、2016年。
オンライン公開されています。
J-STAGEの書誌事項

2016年4月5日火曜日

『まつり』77の特集は「続地芝居の今」


論文出てます。
舘野太朗「地芝居と学生演劇」『まつり』77、2015
学生歌舞伎、地芝居、子ども歌舞伎等について書きました。

2016年2月29日月曜日

市川少女歌舞伎の聞き書き公開されました。

市川少女歌舞伎劇団の中心メンバーにして、現在は東海地方の地芝居の師匠として活躍されている市川梅香師匠と市川福升師匠の聞き書きが「日本近代演劇デジタル・オーラル・ヒストリー・アーカイヴ」で公開されました。舘野は編集と構成を担当しました。

2015年12月13日日曜日

芸能文化研究会第四回研究会

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日時:2016年1月23日(土)
会場:早稲田大学早稲田キャンパス施設名:3号館706号室(演習室)
報告者:川﨑瑞穂さん(国立音楽大学大学院博士後期課程)、矢嶋正幸さん
来聴歓迎いたします。事前に以下のアドレスまでメールをいただけると幸いです。
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【要旨】
川﨑瑞穂「民族音楽学的芸能史研究試論」
 石塚尊俊はその著書『里神楽の成立に関する研究』(2005)の中で、史料の乏しい里神楽の史的研究においては、史料だけではなく、舞所・飾餝・面・衣裳・執物・曲目・所作・奏楽・詞章といった諸要素を個別に比較分析する必要があると述べている。この「曲目・所作・奏楽」という視座から、従来の「出雲流神楽」の史的研究に異を唱えたのが森林憲史である。森林は、関東地方の出雲流神楽における「三つ拍子(テケテットン)」という囃子を研究し、この囃子が、反閇や剣印などといった、山伏神楽の所作と密接に関係していることを明らかにした。楽曲から芸能を見ることの重要性を指摘し、その実例を示した森林の功績は正当に評価されねばならない。
 ところが、音楽を専門としていない研究者にとっての音楽分析のむずかしさもあいまって、この分野の研究は進んでいるとは言えない。そしてこの進捗の遅れは、発表者のフィールドである秩父地方の神楽の研究領域においても同様に見出される。
 本発表では、倉林正次、栃原嗣雄、小野寺節子、三田村佳子、森林憲史らによる秩父地方の神楽の研究史を辿り、「民族音楽学的芸能史研究」の必要性を述べる。クロード・レヴィ=ストロースが『神話論理』の第1巻『生のものと火を通したもの』(1964)の「序曲」において、音楽という謎が人文科学の最後の謎であると同時に、進歩の鍵を握っていると述べているが、本発表では、発表者のこれまでの研究を紹介し、音楽が民俗芸能の史的研究における多くの謎を解く鍵を提供してくれることを示したい。


矢嶋正幸「都市祭礼としての三匹獅子」
 三匹獅子は東日本を代表する民俗芸能であり、その伝承地は1400か所を超える。しかしながら箱根を境にして西日本には数えるほどしか存在していない。その数少ない例外が福井県小浜市の雲浜獅子である。この獅子は寛永11年(1634に武蔵国川越藩主であった酒井忠勝が若狭国小浜藩に転封となったさいに渋る演技者を優位な条件で川越から連れてきたことから始まる。彼らは足軽として酒井家に仕え、関東組という他の足軽とは一線を画す存在となった。そして毎年6月に城下町を挙げておこなわれていた小浜祇園会で獅子舞を演じてきた。
 獅子が移入された近世初期は幕藩体制の確立にともない、城下町の建設ラッシュが起こっていた時期に当たる。酒井忠勝もまた転封後に小浜城下町の整備をおこなっている。雲浜獅子もこうした都市空間が形成される中で関東から移入されたのである。
 三匹獅子が分布するのは圧倒的に農山村に多いため、風祭・雨乞いなどの農耕儀礼との関係で論じられることが多かった。しかし三匹獅子は農山村だけではなく、川越・水戸・掛川などの城下町や、佐原・本庄などの在郷町や宿場町といった都市空間にも少なからず存在している。小浜と川越を中心に、都市祭礼として三匹獅子をとらえなおすことで、この芸能の違った側面を見ていきたい。