2017年11月14日火曜日

平成29年度 歌舞伎学会秋季大会

歌舞伎学会の秋季大会で発表します。会員でなくても参加できますので、お気軽にお越しください。舘野の発表は10日の午前中です。

平成29年度 歌舞伎学会秋季大会

12月9日(土)
会場:早稲田大学27号館 地下2階 小野記念講堂
12:30受付開始、13:00大会開始

12月10日(日)
会場:早稲田大学27号館 地下2階 小野記念講堂
9:30受付開始、10:00大会開始

参加費:会員1000円、非会員1500円
懇親会費:6000円

―――――――――――――――――――――――――――

市川少女歌舞伎のレパートリーについて
舘野太朗(大阪市立大学都市文化研究センター)
【発表要旨】
 地方巡業で評判となっていた雪之丞一座がついに江戸の中村座に出演する。美空ひばり版『雪之丞変化』はそんな場面から始まる。当時の観客は、劇中劇に出演した市川少女歌舞伎を重ねて見ていたのではないだろうか。市川少女歌舞伎は太平洋戦争後に愛知県豊川市で結成された少女だけで歌舞伎を演じる劇団である。祭礼や地方劇場への出演を経て、1953年2月に三越劇場への出演を果たした。以後、10年弱にわたって、あらゆる商業演劇に伍して、東西の大劇場で公演を行った。
 本発表では市川少女歌舞伎のレパートリーを検討する。大劇場進出前から義太夫狂言を中心に豊富な演目を上演していた。例えば、浜松座で1952年7月から9月にかけて行った長期公演では、「十二の替わり」まで演目を入れ替えることができた。東京初出演となった三越劇場公演では昼夜通してすべての演目が義太夫狂言であったが、大劇場には馴染まなかったようだ。以後、劇団はレパートリーの拡充に力を入れる。市川三升、市川海老蔵をはじめとして、市川寿海、尾上松緑、藤間藤子など一線級の指導者のもと、歌舞伎十八番である『勧進帳』、『鳴神』をはじめとして、舞踊、新歌舞伎、新作を取り入れ、地芝居や小芝居と一線を画する演目を揃えていった。
近年の演劇研究では、「女役者」や「少女歌劇」の存在が注目されるようになってきたが、市川少女歌舞伎については基礎的な情報すら知られていない状況にある。今回の発表を少女歌舞伎研究の第一歩としたい。

2017年10月29日日曜日

2017年度日本演劇学会研究集会 テーマ:演技術からみる身体

日本演劇学会の研究大会に出ます。
◆日時:   2017年11月4日(土) ・5日(日)
◆会場:   愛媛大学城北キャンパス (〒790-8577 松山市文京町3)
詳細はこちら

日時:11月4日13:30~
会場:M32教室
パネル:素人演劇の身体性
 日比野啓(成蹊大学)
 片山幹生(早稲田大学)
 畑中小百合(大阪大学)
 舘野太朗(大阪市立大学)

2017年9月27日水曜日

芸能文化研究会第八回研究会

第八回研究会のお知らせです。

来聴歓迎いたします。事前に以下のアドレスまでメールをいただけると幸いです。
geinoubunka〇gmail.com(〇を@に変えてください)





日時: 2017年10月15日(日)14:00~
於 :早稲田大学人間総合研究センター分室(27-8号館)
  (新宿区戸塚町1-101 高田牧舎2階)
発表者:曽村みずき(東京藝術大学大学院)、矢嶋正幸

報告1:曽村 みずき (東京藝術大学大学院)
「薩摩琵琶の音楽構造―鶴田流を中心に―」
薩摩琵琶は、明治時代以降の東京進出により普及していった近代琵琶楽の一つである。薩摩琵琶には大きく分けて四流派(正派・錦心流・錦琵琶・鶴田流)があり、分派を経て成立した。本発表は、薩摩琵琶の複数流派の楽曲分析を通して、薩摩琵琶の音楽構造を体系化することを目的とする。
楽曲分析では、最も新しい鶴田流を中心に、錦心流、錦琵琶の三流派を対象とする。鶴田流は錦琵琶から分派して成立したが、その一方で音楽的には錦心流に立ち返ると指摘されてきた。この三流派を分析対象とすることで、流派の変遷や流派同士の関係性をより具体的に提示し、鶴田流での改革を明らかにする。
音楽構造の分析では、これまで中世・近世の語り物音楽の構造分析に用いられてきた「積層分析」および旋律句におけるフシの特徴を示す三分類「吟誦・朗誦・詠唱」に着目する。「縦」の音楽実態を示してきた積層分析へ、「横」の特徴にあたる旋律句の定型分類を併行することで、薩摩琵琶の音楽構造を概括的かつ詳細に捉えることを試みる。

報告2:矢嶋正幸
「国家に要請された民俗芸能―大正天皇悠紀斉田について―」
愛知県岡崎市の無形民俗文化財となっている「大嘗祭悠紀斉田」は、大正天皇の大嘗祭に当たって悠紀斉田に選ばれた岡崎市六ツ美の田植え歌・田植え踊・装束及び用具・記録が一括して指定されたものである。現在も6月になると悠紀斉田跡地では「六ツ美悠紀斎田お田植えまつり」が開催され、統一した衣装に身を包んだ早乙女たちの歌と踊りとともに田植えがおこなわれている。この田植え歌と田植え踊は、もともとこの地に伝承されたものではなかった。大嘗祭に合わせて新しく作られたものである。平安時代の大嘗祭では悠紀・主基それぞれの風俗舞が舞われていた記録があるが、田植え踊をしていたという記録はない。つまり近代に入って新しく作られた風俗なのである。なぜこのような新しい芸能の創作が要請され、現在まで伝承され続け、文化財にまで指定されるようになったのか。近代という時代性にスポットを当てながら明らかにしていきたい。

2017年5月15日月曜日

民俗芸能学会 第165回研究例会

民俗芸能学会 第165回研究例会
舘野太朗「村芝居の現在・過去・未来」
コメンテーター:中村規・神田竜浩
司会:神田より子
参加費:200円(会員でない方も参加できます)
日時:平成29年7月1日(土)午後2時~4時50分
場所:早稲田大学演劇博物館レクチャールーム

【要旨】
 今回の発表では、神奈川県の事例を中心に、村芝居の現況、担い手や上演の変化、将来への見通しと課題についてお話ししたい。
 村芝居とは、祭礼等の機会に村落で上演されるかぶき芝居である。そのうち、村落の住民がみずから演じるものを地芝居、外部の劇団や近隣の住民を招聘して上演するものを買芝居と呼ぶ。村芝居を請け負う劇団は太平洋戦争後に姿を消し、現在では村芝居と地芝居がほぼ同義となっている。現在、地芝居を上演する団体は全国に200件ほどあるが、江戸時代から連綿と上演が続いている団体は希で、多くの団体が中断と復活を経験している。
 神奈川県では、1800年頃には既に地芝居が上演されていた。明治以降は買芝居が優勢となり、神楽師の流れをくむかぶき専門の劇団が1970年頃まで活動した。その後、県下の村芝居は、海老名市大谷地区の地芝居を残して行われなくなるが、1990年代以降、各地で地芝居の復活がなされ、現在は、海老名市の大谷歌舞伎、相模原市緑区の藤野歌舞伎、綾瀬市の目久尻歌舞伎、横浜市泉区のいずみ歌舞伎、座間市の入谷歌舞伎の五団体が活動している。大谷歌舞伎を除く四団体では祭礼の場を離れて、公共ホールで公演が行われている。また、義太夫狂言の上演に不可欠な竹本は全団体で外部から演奏家を招聘している。
 現在の村芝居は民俗藝能の範疇で議論されうるものなのだろうか。浅野久枝は「創り上げられる「山の芸」―長浜曳山祭・奉納子供歌舞伎にみる町衆の心意気」(『民俗芸能研究』61、2016)において、「地元以外の指導者を招聘する地芝居すべてが民俗芸能かどうかは言及しないが、少なくとも長浜曳山祭で上演される子供歌舞伎は、「山の芸」という民俗に裏打ちされた芸能である」としている。守屋毅「地狂言の終焉」(角田一郎編『農村舞台の総合的研究』、桜楓社、1971年)を参照しながら、私見を述べたいと思う。

舘野太朗(いずみ歌舞伎保存会会員・大阪市立大学大学院文学研究科都市文化研究センター研究員)1985年生まれ。1998年、泉公会堂『白浪五人男』の日本駄右衛門で初舞台。2009年、筑波大学第二学群日本語・日本文化学類卒業。2012年、筑波大学大学院人文社会科学研究科国際地域研究専攻修了。修士(国際学)。現在の研究テーマは、傍流のかぶき芝居(村芝居、学生歌舞伎、小芝居、市川少女歌舞伎など)、日本におけるモダン・パジェントの受容と展開。



2017年3月7日火曜日

宝塚と少女歌舞伎

市川少女歌舞伎の関係者が宝塚を引き合いに出すことはよくあるが、逆は珍しい。エデルソン2009で紹介されている大阪日日新聞の記事。以下引用。

「ムスメばかりの歌舞伎」大阪日日新聞1955年2月6日
市川少女歌舞伎、宝塚歌舞伎、アヅマ歌舞伎とこのところ女性の手による歌舞伎公演が盛んに行われている。中でも市川少女歌舞伎と宝塚歌舞伎は同じ女性ばかりの劇団でありながら一方は純歌舞伎、また一つは新しいスタイルの宝塚歌舞伎とその目的を異にしているようだ。そこで少女歌舞伎演技指導の市川升十郎と宝塚の歌舞伎演出家錢谷信昭の両氏にそれぞれのむすめ歌舞伎を語ってもらった。
市川升十郎 うちは現在歌舞伎の大舞台で上演されているのと同じ形式の歌舞伎を、少女たちがそのまま写してやっているので、いまのところ役柄に俳優の個性が演技として出ているようなことはありません。といってたんなる物真似でもないのです。やはり写してあらわす表現力が古典歌舞伎でいうところの演技力といわれるものなのです。セリフも歌舞伎の発声法で訓練しましたので女役の子でさえ一度声をつぶして女性の声を殺してから、歌舞伎の女形と同様、女のつくり声でセリフをいうようになるまでやりたいと思っています。もちろん、生地でみせる女らしい自然な形は一切みとめません。男が女を表現するためにつくられた歌舞伎独特の演技法、これをくずさずに演っていくのが、歌舞伎以外の世界を知らない私たち劇団の進む道だと思っております。
銭谷信昭 宝塚歌舞伎は竹本三蝶一座の〝義太夫に乗せて〟ということになっているため、市川少女歌舞伎のように本格的歌舞伎をすることは出来ません。またそれでいいのだと思います。宝塚のように新しいものの先端をいく人たちが演ると古いものも全然ちがった新鮮なものとなって生れかわるのです。宝塚では三百六十五日歌舞伎をやっていない。バレエも声楽も、日舞も芝居も生徒はあらゆるものを身につけ、それをその時その時に実に器用にこなしていっていますが、そのため日本舞踊にダンスの手が見えたり、バレエに日本舞踊の身のこなしがみえたりもする。これが宝塚の味なのです。だから歌舞伎に宝塚の天津、春日野の型が生れてもいいのではないでしょうか。古いものに頼るという消極的な態度から一歩進んで、その上に新しいものを創作してゆく、これが宝塚歌舞伎の第一の目的です。このあいだの研究会でも私は「箱根霊験記」の演出で時間の推移を照明で工夫したり、スローテンポの立回りを剣劇風な早立回りにしてトンボのいないさびしさをカバーしたり、宝塚に合った歌舞伎の創造に苦心しました。スマートな歌舞伎それがうちの一番の特色です。

2017年2月2日木曜日

芸能文化研究会第七回研究会

第七回研究会のお知らせです。

来聴歓迎いたします。事前に以下のアドレスまでメールをいただけると幸いです。
geinoubunka〇gmail.com(〇を@に変えてください)

日時:2017年2月25日(土)14時~
会場:早稲田大学人間総合研究センター分室(27-8号館) 高田牧舎2階(新宿区戸塚町1-101)



 

報告1:報告1:伊藤 純(早稲田大学人間総合研究センター)
「民俗芸能・明治大正昭和再考―揺籃期民俗芸能研究の同時代評―」

 本田安次『民俗芸能採訪録』(1971年)や永田衡吉『民俗芸能・明治大正昭和』(1982年)のように民俗芸能研究の軌跡や学史の振り返りは、しばしば民俗芸能研究者自身による当事者としての語りあるいは調査経験・知見の披瀝として描かれることがある。また、民俗藝術の会を活動の場とした先人たちの研究ついても検討され、いわば民俗芸能研究の正史としての学知が形成されつつある。一方で、1980年代末から1990年代にかけては、橋本裕之を旗頭に、民俗芸能研究に内在するイデオロギーが問題化され、民俗芸能研究の一定程度の相対化も図られた。
 ところで、民俗芸能研究の黎明期・揺籃期(そして現在もだが)には、研究者のテキストのみならず、多様なメディアで芸能に関するテキストが生成されている。近代的認識のなかで民俗芸能研究は起こり、その後景にある鉄道整備、新聞社の登場、劇場建設運動、帝国主義日本、郷土研究・民俗学の成立といった様々な局面と対合しながら芸能がとりあげられている。研究者のテキストだけでなく、芸能や芸能研究に関する同時代評をテキストの中心に据えることで、これまでとは異なる学史を描けるのではないだろうか。本報告では学史検討の方法それじたいをも主題としつつ、新たな民俗芸能研究の学史について試論する場としたい。

報告2:鈴木昂太(総合研究大学院大学)
「広島県の神楽が経験した近現代―政治・民俗学・文化財―」

 我々が見ることができる現在の民俗芸能を理解する上では、近現代が与えた影響を無視することはできない。
たとえば、明治初めに出されたとされる「神職演舞禁止令」と「神懸り禁止令」を受けて、神楽の担い手が神職から一般村人へと移り、囃子のリズムが速く娯楽性が重視された石見神楽や芸北神楽が創出されたとされている。この場合、明治新政府が意図した国家神道の確立という政治上の命題が影響を与え、神楽の担い手や祭式に変化が引き起こされた。
また、大正時代になると、地域で伝承されていた民俗芸能が、都会から訪れる学者によって発見され、評価が与えられていく。そうした過程のなかで、研究者の理解が地元に影響を及ぼし、神楽の意義や呼称が新たに創られることもあった。
 さらに戦後になると、研究者が与えた評価に基づいて文化財指定が行われ、保存会という新たな伝承組織や伝承活動に対する補助金の創設が行われたり、祭礼の現地公開など新たな披露の場が生み出された。
このように近現代における政治・民俗学・文化財は、地域において伝承されてきた民俗芸能に、外から影響を与えてきた。その一方で、民俗芸能の伝承者は、政治・民俗学・文化財の影響を逆に利用し、時代の変化に対応を図ってきている。近現代における民俗芸能の変化を捉える上では、地域の外部から与えられた影響だけでなく、地域や伝承者がそれをどう受け止め、昇華していったかという対応の歴史に注目しなければならない。その際には、そうした選択に至らしめた地域社会及び伝承者内部の論理を踏まえて考察する必要がある。
 以上の問題意識を持ち、近現代という時代が広島県の神楽に与えた影響、それに対応するために生じた変化を明らかにしていきたい。本発表では、発表者が継続的に調査している広島県備北地方の神楽を中心に、広島県知事から出された法令、広島県神職会発行の雑誌、神楽師が書き残した手記などの文献資料に基づいて論じていく。

2017年1月14日土曜日

「三大地歌舞伎」説への疑問

神奈川県、岐阜県、兵庫県の歌舞伎が「三大地歌舞伎」として紹介されることがあります。例えば、美濃歌舞伎博物館相生座のホームページでは以下のように説明しています。
日本各地で行われている地歌舞伎の中でも、さらに三つの地域のものについては、ある理由から、研究者の間では、日本三大地歌舞伎という呼称で調べられています。
三大地歌舞伎とは
1.小田原を中心とした相模地方の相模歌舞伎
2.中山道美濃の国の美濃歌舞伎
3.西国より京に至る事実上上山陽道の終点ともいえる播磨の国(今の兵庫県)の播州歌舞伎
以上三地方の地歌舞伎を指して呼ばれるものです。
今、国内の各地方で上演されている歌舞伎を含めての素人芝居は、徳川幕府がその支配力を失った19世紀の初頭から全国的に広がりました。(美濃歌舞伎博物館相生座HPより引用
「三大地歌舞伎」説は、この解説を踏襲するかたちで、岐阜県を中心に全国に広まりつつあります。僕は神奈川県を中心に地芝居の研究をつづけてきましたが、「三大地歌舞伎」説にはいくつかの疑問があります。

「研究者の間では、日本三大地歌舞伎という呼称で調べられています。」とありますが、僕は「三大地歌舞伎」説を採用している研究者を知りません。「農村舞台」研究のパイオニア的存在である松崎茂が神奈川県下の現存舞台の多さに注目したことがあるものの、それを引き継いだ角田一郎以降の研究者は神奈川県の舞台にはそれほど強い関心を示してきませんでした。少なくとも研究上は、神奈川県の地芝居が「三大地歌舞伎」の一角を占めるほど重要視されてきたとはいえません。

また、相模歌舞伎の中心地を小田原としている点も疑問です。小田原には桐座という芝居小屋のあったことが知られていますが、その実態はほとんどわかっていません(今後、荒河純さんの仕事ではっきりしてくるかもしれません)。神奈川県では近世末期から、祭礼等で芝居が上演されてきましたが、小田原から人を呼んだという記録は知りません。グッと時代が降りますが、昭和年間の相模歌舞伎というと、三桝源五郎や市川柿之助といった名前が知られており、この人たちは、座間、厚木、海老名といった「県央」地区を中心に活動していました。相模歌舞伎の中心地は県央で、小田原は歌舞伎よりも相模人形芝居のほうが盛んという印象があります。

神奈川で芝居をしている者として、「三大地歌舞伎」のひとつに数えていただけるのはありがたいのですが、根拠のはっきりしない状態で紹介されるのはどうもスッキリしません。地芝居(地歌舞伎)の概説で「三大地歌舞伎」説を採用されるのであれば、誰がどこで言いはじめたことなのかはっきりさせて欲しいです。