2017年1月14日土曜日

「三大地歌舞伎」説への疑問

神奈川県、岐阜県、兵庫県の歌舞伎が「三大地歌舞伎」として紹介されることがあります。例えば、美濃歌舞伎博物館相生座のホームページでは以下のように説明しています。
日本各地で行われている地歌舞伎の中でも、さらに三つの地域のものについては、ある理由から、研究者の間では、日本三大地歌舞伎という呼称で調べられています。
三大地歌舞伎とは
1.小田原を中心とした相模地方の相模歌舞伎
2.中山道美濃の国の美濃歌舞伎
3.西国より京に至る事実上上山陽道の終点ともいえる播磨の国(今の兵庫県)の播州歌舞伎
以上三地方の地歌舞伎を指して呼ばれるものです。
今、国内の各地方で上演されている歌舞伎を含めての素人芝居は、徳川幕府がその支配力を失った19世紀の初頭から全国的に広がりました。(美濃歌舞伎博物館相生座HPより引用
「三大地歌舞伎」説は、この解説を踏襲するかたちで、岐阜県を中心に全国に広まりつつあります。僕は神奈川県を中心に地芝居の研究をつづけてきましたが、「三大地歌舞伎」説にはいくつかの疑問があります。

「研究者の間では、日本三大地歌舞伎という呼称で調べられています。」とありますが、僕は「三大地歌舞伎」説を採用している研究者を知りません。「農村舞台」研究のパイオニア的存在である松崎茂が神奈川県下の現存舞台の多さに注目したことがあるものの、それを引き継いだ角田一郎以降の研究者は神奈川県の舞台にはそれほど強い関心を示してきませんでした。少なくとも研究上は、神奈川県の地芝居が「三大地歌舞伎」の一角を占めるほど重要視されてきたとはいえません。

また、相模歌舞伎の中心地を小田原としている点も疑問です。小田原には桐座という芝居小屋のあったことが知られていますが、その実態はほとんどわかっていません(今後、荒河純さんの仕事ではっきりしてくるかもしれません)。神奈川県では近世末期から、祭礼等で芝居が上演されてきましたが、小田原から人を呼んだという記録は知りません。グッと時代が降りますが、昭和年間の相模歌舞伎というと、三桝源五郎や市川柿之助といった名前が知られており、この人たちは、座間、厚木、海老名といった「県央」地区を中心に活動していました。相模歌舞伎の中心地は県央で、小田原は歌舞伎よりも相模人形芝居のほうが盛んという印象があります。

神奈川で芝居をしている者として、「三大地歌舞伎」のひとつに数えていただけるのはありがたいのですが、根拠のはっきりしない状態で紹介されるのはどうもスッキリしません。地芝居(地歌舞伎)の概説で「三大地歌舞伎」説を採用されるのであれば、誰がどこで言いはじめたことなのかはっきりさせて欲しいです。