2018年12月25日火曜日

スーパー一座と市川升十郎、地芝居。

スーパー一座が市川升十郎の指導を仰いでいた、という話。市川升十郎は、市川少女歌舞伎劇団の指導者として知られる。劇団が商業公演を撤退したのちは、劇団員とともに中部地方を中心に地芝居の師匠として活動していた。スーパー一座成立には、誰にでも歌舞伎を教えてくれる升十郎のような存在が重要だったのではないか。スーパー一座から地芝居の竹本が出たという記述も、同時代演劇と伝統演劇の繋がり方として注目に値する。以下引用。

岩田信市「ロック歌舞伎と大須オペラ」(『自然と文化』77、2005年1月) 
 手短かに述べた上記のような一座の歴史から、もうお解りかと思うが、我々の求めていたのは伝統の破壊ではなく、むしろ伝統の復活である。ただ、形骸化した様式にとらわれない、というだけのことだ。セリフも台本も自由にいじるが、決してパロディ風に現代化したり、流行のアングラ芝居風にアチャラカにふざけたりはしない。あくまでもオーソドックスである。演技も一座結成以来、かつての少女歌舞伎の指導者、市川升十郎師に型の指導を受け、今でも年一本ずつ、義太夫狂言の指導をあおいでいる。役者の基礎訓練として始めた義太夫節の練習の中から育った竹本団勇は、今ではこの地方で盛んな農村歌舞伎の太夫として、引っぱりだこの欠かせない存在となっている。

岩田信市、大須新歌舞伎座を語る。

岩田信市(1935-2017)は、1960年代に名古屋を中心に活動した前衛藝術集団「ゼロ次元」の中心メンバーとして知られる。1979年に「ロック歌舞伎スーパー一座」を結成し、2008年まで大須演芸場で「吉例師走歌舞伎」を上演する。「スーパー一座」の原点には大須新歌舞伎座で見た小芝居の記憶があったらしい。以下引用。

岩田信市「ロック歌舞伎と大須オペラ」(『自然と文化』77、2005年1月)
 今でこそ歌舞伎は完全に様式化、古典化されているけど、私が歌舞伎に興味を持った戦後間もない頃はまだまだ歌舞伎も生きていて、盛んに新作が上演されたり、忠義や義理人情の中に新しい解釈が注入されたりして、どちらかというと、思想的、リアリズム的方向が追求されていた時代だ。
 「様式美にたよる方向こそが歌舞伎をだめにする」といわれている時代に「様式美こそが歌舞伎だ」という岸田劉生の『歌舞伎美論』を読んで我が意を得たりと大いに感動した。世の中はこの本をまるで否定していた。戦後、すべての文化がアメリカナイズされた中で劉生の東洋美に目覚めた少年の僕は、そのことが納得できず、デロリとした美に憧れていたものだ。
 ところが、その憧れの歌舞伎が、名古屋の下町、大須にあった。昭和二十七年、僕の家の裏に生まれた新歌舞伎座である。当時としても、もう珍しい歌舞伎主体の小屋で、いわゆる小芝居が常打ちされていた。嵐三五郎、関三十郎などという、今は消えてしまったが、江戸時代の大名題の役者が主で若い頃の先代の鴈治郎と共演していた片岡秀郎などという役者は評判であった。「錣引」とか「切られお富」なんぞという珍しい演し物の、ぞくっとするような退廃美に惹かれ、これぞ本当の伝統の江戸歌舞伎だと思った。当時、小芝居唯一の残党として東京の「かたばみ座」が有名であったが、比べてみて、僕は、はるかに三五郎一座の方が素晴らしかったと思っている。しかし、この反現代的歌舞伎一座も、その小屋も、結局時代に抗することはできずに何年か続いた後につぶれてしまったのだが、僕の中には、この時の歌舞伎のイメージが、強く焼きついていて、明るく、華やかなだけでこくのない昭和歌舞伎についてゆくことができず、結局歌舞伎は見なくなってしまった。

2018年12月23日日曜日

ハラプロジェクト『パンク歌舞伎・地獄極楽』


ハラプロジェクト『パンク歌舞伎・地獄極楽』

日時:2018年12月21日~24日(21日19時開演を観劇)
会場:名古屋能楽堂

演出:原智彦
脚本:岩田信市「平家女護ヶ島」
原作:近松門左衛門「平家女護ヶ島」

音楽:TURTLE ISLAND、切腹ピストルズ

10月に国立劇場で芝翫が通し上演を手がけたときと同様に、主宰の原智彦が清盛と俊寛を兼ねる。特に俊寛は原のニンにぴったり。予想以上に歌舞伎のにおいが濃厚で、男性役はせりふを歌舞伎の息で大時代にうたう。対して、女性役は新劇的なせりふまわしでリズムと世界を壊してしまう。千鳥を演じた藤井朋子は例外的に歌舞伎になっていた。女性だから歌舞伎の女方のせりふができないということはない。各地の地芝居、学生歌舞伎、あるいは女流義太夫には、達者に女方を演じる女性がたくさんいる。また、女性役が白塗りやかつらを使わないので、役柄が判然としない。

劇伴のタートルアイランドは歌舞伎の役割で言うと黒御簾であり、浄瑠璃ではなかった。語りもの系の音楽ではないので、義太夫狂言的な音楽劇の快楽に欠けており、基本的にはせりふ劇で運んでいく。例えば、タートルとは別に浄瑠璃として浪曲師やラッパーが入ればもっといいと思う。切腹ピストルズはこのまえの「幽玄」の鼓童のような感じで、演奏と演技を兼ねる。

ツケは最初、揚幕の奥で打っていて非常に違和感あったが、途中から上手に移動して安心した。歌舞伎の息で打つので、見得で声をかけたくなる。今度見るときには声をかけよう。ツケ打ちは頭巾かぶってたが、顔出しでもよいのでは。柝は使わなかった。これはわざとかもしれない。

タテは歌舞伎の語彙で処理しているので、美しいし、安心して見れた。

パンク歌舞伎といっても、タートルアイランドはパンク成分薄め。途中、メセニーみたくなってたし。では、何がパンクかと言うと、歌舞伎を好き勝手にぶんまわす原さんがパンクなのではないかと思った。僕らは歌舞伎出ていても基本的には習ったことをそのままやるように頑張るわけで、ひとりで何かができるわけではない。いまはそれはそれで楽しいのだけど、中高生の頃はそれが負い目だった。その時分に、大須歌舞伎を見ていたらはまっただろう。そういう面でパンクロックに通じる初期衝動を感じた。花組芝居や木ノ下歌舞伎など、歌舞伎をベースにした劇団は他にもあるが、本流の歌舞伎に対する遠慮から知的な処理を施す。ハラプロジェクトは歌舞伎を暴力的に遊び倒す感じがある。こういうものは名古屋だから成立するのではないかと思った。

2018年12月11日火曜日

神山彰編『興行とパトロン』



興行とパトロン
近代日本演劇の記憶と文化 7

神山彰[編]
A5判/368頁
本体4600円(+税)
ISBN978-4-86405-135-4
C1374
2018-12

近代日本演劇

舞台を支える影の力学
興行師やパトロンなどの複雑な人的交流によってつくられる「近代演劇」。開化と改良の時代から現代まで、企業資本や政財界人による近代的な整備や関与の一方で、興行師、花柳界、小芝居や村芝居など、興行をめぐる多層的世界をさぐる。
興行の夢と現実とは──。

[Ⅰ 総論]
第1章 「夜」の演劇史──興行とパトロンの世界=神山彰

[Ⅱ 「開化」と「改良」の時代]
第2章 鳥熊芝居と小芝居と=佐藤かつら
第3章 歌舞伎座そして田村成義=寺田詩麻

[Ⅲ 近代化の光と影]
第4章 松竹と東宝──関西資本の東京進出=神山彰
第5章 見物から鑑賞へ──花街の連中、惣見、役者買=岩下尚史
第6章 京阪神のパトロン=河内厚郎
第7章 根岸興行部と浅草芸能の変遷=原健太郎

[Ⅳ 近代産業とモダン文化]
第8章 鉄道と保険──帝劇から日生劇場まで=神山彰
第9章 緞帳の調製と百貨店──進上幕の近代=村島彩加
第10章 中山太陽堂と小山内薫──化粧品会社と近代日本演劇の一側面=熊谷知子
第11章 企業が〈演出〉する渋谷の劇場文化──東横/東急とパルコの場合=後藤隆基

[Ⅴ「中央」と「村」と]
第12章 パトロンとしての国家権力──原敬内閣における「国民文芸会」と「大日本国粋会」=木村敦夫
第13章 相模の團十郎」たち──村芝居の興行=舘野太朗


2018年6月20日水曜日

芸能文化研究会第十回研究会

第十回研究会のお知らせです。

来聴歓迎いたします。事前に以下のアドレスまでメールをいただけると幸いです。
geinoubunka〇gmail.com(〇を@に変えてください)





日時:2018年7月1日(日) 14:00~
於 :早稲田大学人間総合研究センター分室(27-8号館)
(〒169-0071 東京都新宿区戸塚町1-101 高田牧舎2F ℡03-3203-0363)

報告1:半戸 文 (國學院大學大学院文学研究科日本史学専攻博士課程後期)
「芸妓のもてなしと芸―1920年代から30年代を中心に―」
 芸妓や花街は江戸時代に誕生したものであり、近代以前の伝統的なイメージをもたれているが、近代において大きな発展を遂げたという事実はあまり知られていない。東京において芸妓の需要が高まったのは、東京に集中する政治家や財閥などの富裕層が積極的に利用したこと、また大都市において庶民の娯楽消費が拡大したためだと考えられる。昭和戦前期の東京では、都下50程度の下町(旧市街)や、山の手(新興地域)から小規模町村に至るまであらゆる地域で営業を行っていた。
 本報告では、花街を遊興空間(飲食を含む娯楽空間)、芸妓を接客業従事者として位置付け、東京における芸妓の職掌とその特徴を明らかにすることを目指す。芸妓の本来の職掌は、宴席にて芸を演じて客をもてなすことである。そのために必要な芸の基礎的な習得過程と、さらに上級的な習得過程について、三味線音楽を中心に事例を取り上げて実態を明らかにしたいと考える。
 さらに、明治期後半からカフェが出店をはじめ、徐々にカフェの女給は同じ接客業者として、芸妓の競合相手と目されるようになる。時代のニーズと都市の発展による娯楽の多様化に伴い、芸妓のもてなしのあり方も変化する中で、芸に特化した芸妓と、女給同様の芸妓に分岐していった背景とその流れを示すことを目指す。


報告2:松岡 薫 (筑波大学博士特別研究員)
「俄の演技にみる反復性と一回性―熊本県南阿蘇地方を事例に―」
 俄(にわか)とは、どのような芸能なのか。
 芸能辞典で調べると、「素人の即興芝居」(郡司正勝1952「俄」国劇向上会編『藝能辞典』東京堂出版)や、「即興で思いついた芸能」(宮田繁幸2010「にわか」神田より子・俵木悟編『民俗小辞典 芸能』吉川弘文館)だと説明される。また、郡司正勝はその著作のなかで、俄について「にわかに仕組んだ、つまり即興劇」であり、「一回切りの、二度とはやれないという「一回性」」が俄の本質だと述べる(郡司正勝1977『地芝居と民俗』(民俗民芸双書58)岩崎美術社)。このように、「即興的」で「一回的」な演技であることが俄の最大の特徴だと、これまでの研究では強調されてきた。
 しかしながら、発表者が長年調査を行ってきた熊本県阿蘇郡高森町で演じられる俄は、半月間にわたる稽古期間を経て演じられるものであり、その演目内容や、俄の特徴である最後の「落とし」は、上演の場での思いつきや即興で演じられるものではない。さらに、上演の前後に述べられる「口上」や「御花の披露」は決められており、「落とし」の場面でも定型的なやり取りが観察できた。確かに高森町の俄でも即興的で一回的な演技が指摘できるが、他方で同一の演技を反復的に演じている点も指摘できる。つまり、こうした一回的な演技と反復的な演技が、俄の演技を構築しているといえる。
 本発表では、熊本県高森町で演じられている俄を事例として、上演の場において演者たちがどのように俄が演じているのかを、祭礼での上演の観察から分析する。さらに、俄の演技がいかに作られ、習得されているのかを明らかにするため、稽古の場にも注目する。最後に、これらの分析から俄の演技にみる反復性と一回性について検討したい。

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2018年2月13日火曜日

渋谷学研究会「民俗芸能の舞台公演―その歴史・意義―」

出演します。渋谷系だぜ~。いぇいいぇい。
國學院大學のサイトも見てください。



國學院大學21世紀研究教育計画委員会研究事業「地域・渋谷から発信する共存社会の構築」

平成29年度渋谷学研究会「民俗芸能の舞台公演―その歴史・意義―」

日時 | 平成30 年3 月15日(木) 13:30 ~ 17:30
会場 | 國學院大學渋谷キャンパス 5号館 5301教室

「折口信夫と民俗芸能上演」  小川 直之(國學院大學教授)
「民俗藝能の大正 —民衆藝術・ページェント・郷土舞踊—」 舘野 太朗(大阪市立大学都市文化研究センター研究員)
「郷土を離れてお祭り広場へ —全日本郷土芸能協会の成り立ちと現在—」 小岩秀太郎(公益社団法人全日本郷土芸能協会)

コメンテーター茂木 栄(國學院大學教授)大石泰夫(盛岡大学教授)

 【お申し込み】
下記連絡先(E メールまたはFAX) にお申し込みください。その際、「渋谷学研究会参加希望」とご明記のうえ、(1) 住所、
(2) 氏名、(3) 電話番号をご記入ください。
E-mail: shibuyagaku@gmail.com

FAX:03-5466-9237(國學院大學研究開発推進機構事務課)

●お問い合わせ先 
國學院大學研究開発推進機構事務課 ℡03-5466-0104
*承った個人情報は、國學院大學が主催する
イベントに関する案内等にのみ使用します。

芸能文化研究会第九回研究会

第九回研究会のお知らせです。

来聴歓迎いたします。事前に以下のアドレスまでメールをいただけると幸いです。
geinoubunka〇gmail.com(〇を@に変えてください)

日時: 2018年3月10日(日)14:00~
於 :早稲田大学人間総合研究センター分室(27-8号館)
  (新宿区戸塚町1-101 高田牧舎2階)
発表者
 黛友明(神奈川大学国際常民文化研究機構共同研究者)
 小泉優莉菜(博士、歴史民俗資料学、公益財団法人 ポーラ伝統文化振興財団学芸員)

報告1:黛友明(神奈川大学国際常民文化研究機構共同研究者)
「「素人」と「専業者」を分つもの、繋ぐもの」
 民俗芸能についての定型的な説明のひとつに、「専業者ではない素人(農民)の芸能」というものがある。これは、能や歌舞伎といった伝統芸能でも、落語や講談、浪花節といった大衆芸能でもないものというニュアンスを含んでいる。ただ、芸能史と不可分に成立してきた民俗芸能研究では、実際には、生活の糧を得るための「専業者の芸能」も射程に入れたうえで調査研究が進められてきた経緯もある。歴史的にみれば、多様な宗教者や芸能者が各地の民俗芸能の成立に関与してきたことは否定できないため、それは当然のことであった。だが、そうなると、「素人」と「専業者」という枠組みが、逆に足枷になるのではないかとも思えてくる。
 もちろん、「素人の芸能」という言い方は、便宜的なものであり、わかりやすく対象を研究者以外にも伝えるために有効なものだろう。だが、そうであるがゆえに、何となく人びとを納得させてしまう、民俗芸能という言葉のイメージと問題点が、凝縮して表れているのではないか。
 本発表では、発表者が継続してきた「専業者の芸能」である、伊勢大神楽を取っ掛かりとしながら、「素人の芸能」という説明を「民俗」という概念との関係で理解しながら、芸能文化に対する民俗学的な研究のあり方について考えるための問題提起としたい。


報告2:小泉優莉菜(博士、歴史民俗資料学、公益財団法人 ポーラ伝統文化振興財団学芸員)
「かくれキリシタン信仰再考―オーラル・ヒストリーを視座として―」
 「かくれキリシタン信仰」と聞くと、多くの人は、江戸期の弾圧や処刑、踏み絵などを思い浮かべるだろう。しかし、この信仰は過去の遺物ではなく、現代においても綿々と受け継がれている。発表者は今までの研究の中で、高度経済成長や世界遺産登録活動が、信仰形態に大きな影響をもたらしていることを明らかにした。現代の伝承者の語りに耳を傾けると、われわれが「キリシタン」という言葉に抱いてきた「血生臭く神秘的」なイメージの裏には、より現実的な生活の営みがあったことを知ることができる。本発表では、今までの研究を振り返り、オーラル・ヒストリーが、「かくれキリシタン信仰」に対するイメージの再考を促す有力なアプローチであることを示す。

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2018年1月20日土曜日

藝能関係諸学会の会員資格・年会費・紀要発行回数

文学通信のブログで日本文学系主要学会の入会金・会費・会誌発行サイクル・資格制限等一覧という記事を見て、「おもしろそうだ。あたいもやってみようかしら。」ということで藝能関係諸学会でやってみた。僕に関係ありそうな学会を思いつくままにリストアップしただけなので、すべてを網羅しているわけではありません。

学会名会員資格年会費紀要発行回数
日本演劇学会推薦者7000円年二冊
舞踊学会推薦者7000円年一冊
藝能学会なし6000円年一冊
藝能史研究會なし6800円年四冊
日本民俗学会紹介者8000円年四冊
民俗芸能学会推薦者6000円年二冊
日本民俗音楽学会推薦者7000円年一冊
東洋音楽学会なし8000円年一冊
歌舞伎学会なし5000円年二冊
楽劇学会なし5000円年一冊
能楽学会なし5000円年一冊