2019年5月5日日曜日

藝術学関連学会連合 第14回公開シンポジウム

藝術関連学会連合の公開シンポジウムに参加します。
詳細は藝術関連学会連合のページをご覧ください。

藝術学関連学会連合
日本学術会議 協力学術研究団体
第14回公開シンポジウム
アマチュアの領分
過去・現在・未来



2019年6月8日(土)13:00-17:00
国立国際美術館 大阪府大阪市北区中之島4 -2-55
主催:藝術学関連学会連合

プログラム
13:00  開会の言葉 藤田治彦|藝術学関連学会連合会長
     共催者挨拶 山梨俊夫|国立国際美術館館長
     全体の趣旨 鈴木禎宏|意匠学会|お茶の水女子大学
第1部 アマチュアの歴史  13:20-14:40
歴史においてアマチュアが果たしてきた役割について考えます。異なる芸術分野ごとの事情の違いに気づくとともに、歴史においてアマチュアがいかなる存在であったのかについて理解を深めます。

13:25 照らされたドメスティック・クラフツ
山﨑稔惠|服飾美学会|関東学院大学
13:40 農民美術におけるアマチュアの性質
石川義宗|日本デザイン学会|長野大学
13:55 〈芸術家〉になれなかった山下清
服部 正|美術史学会|甲南大学
第2部 アマチュアの現在  15:00-16:20
アマチュアをどう養成していくか、アマチュアはどう発生するか、プロ-アマの構図をどう見直していくのかといった問題点について議論します。各芸術分野がいま現在かかえている問題について比較検討をおこないます。

15:05 地芝居に見る〈アマチュアの領分〉
舘野太朗|日本演劇学会|横浜いずみ歌舞伎保存会
15:20 ポップカルチャーから見る〈よさこい系〉
秋庭史典|美学会|名古屋大学
15:35 プロ/アマの境界のシフトと社会的認知のズレ
神野真吾|美術科教育学会|千葉大学
第3部 アマチュアの未来  16:30-17:30
専門家集団である学会はアマチュアについて真剣に語ってきたでしょうか。現実においてプロはどれほどアマチュアと区別されるのでしょうか。芸術文化の根本にかかわる問題に切り込み、未来の芸術文化の担い手について考えます。

17:25 閉会の言葉 貫成人|藝術学関連学会連合副会長|専修大学
17:30 終了

地芝居に見る〈アマチュアの領分〉
舘野太朗|日本演劇学会|横浜いずみ歌舞伎保存会
歌舞伎は都市部のみならず、村落部においても村芝居として享受されてきた。村芝居は一座を買ってくる買芝居(かいしばい)と、素人の住民がみずから演じる地芝居(じしばい)にわけることができる。地芝居であっても、振付(演出)や音楽の演奏には、専門技術をもつ「プロ」が関わっていることが多い。「プロ」が担っている役割から、地芝居における「アマチュアの領分」を明らかにしたい。

民俗芸能学会第174回研究例会

民俗芸能学会第174回研究例会
「由來八幡宮姫之飯神事の検討」
発表者:小島美子、上西律子、茂木栄
司会:舘野太朗
日時:令和元年5月25日(土)14:00~
場所:早稲田大学演劇博物館レクチャールーム(6号館3階)
※参加費200円(会員でない方も参加できます)
要旨:
 由來八幡宮は島根県出雲地方の最西南端、中国山地にさしかかった所の飯南町頓原にあり、『出雲國風土記』には田倍社の名で記されている。毎年11月7日に姫之飯神事という祭が行なわれる。拝殿の中に設けられた舞殿の前面に、小さな俵2個を1組にしたものが3組並べられ、その上に白幣をたて、根つきの稲を4杷ずつ置く。禰宜が巫女の姿で登場し、再拝拍手した後、長い担(にな)い竹をとって四方に舞う。担い竹の両側に小俵の上の12杷の稲束をかけ、両手で持って舞う。正面の案(机)の下に置いた火吹竹などを持って舞い、案の上に置いてあった玄米を蒸したり餅をつくなどの仕ぐさをし、中から餅をとり出して正面や前面の小俵の上に置く。小俵の上の幣を取り、両手にもって舞って終わる。
 この前に御旅所往復などのはなやかな神幸行列などもあり、翌日には次の頭(とう)屋(や)を決める頭渡し神事が行なわれる。
 この姫之飯神事より早く10月の中頃に、その年の頭屋の田で稲刈を行ない、神事を行なった後、刈った稲を乾燥し脱穀し、それを姫之飯神事の前面に置いた3組の小俵に詰めておく。ただ12杷の稲だけは、担い竹にかけるために残し、他は神饌に充てる。
 さらにその前に注連おろしという儀式があり、田に1間四方の四隅に笹竹を立て、その正面に案を置きその上に御霊代宮という小さな宮を置いて神事を行なう。この神事では降神はするが、昇神はやらない。つまりこの小宮は稲霊を祀っているのである。
 また姫之飯神事で重要なのは、古くから伝えられてきた神饌で、玄御供(玄米の小豆飯)、里芋、ヤグサ餅(蚕に似せて作った餅)の3種を必ず一の膳として供えることである。これらは水田稲作が行なわれる前の稲作以前のものを大切に祭りつづけているということである。それをつづけられたのは、一つは中央から遠く圧力がかかり難かったということが考えられるが、もう一つはそれを支える頭屋制がしっかりしていたことであろう。
 この地の米は大国主命によって広められたと伝承されている。蚕もあり、そして里芋は南方に起源をもつ。この神事は複数の文化の複合の証左として考えられる。
「姫之飯神事」の本義を稲、儀礼、音楽、祭具類から検討したい。


2019年3月12日火曜日

『都市民俗研究』24


論文出ました。
昨年のシンポジウムの内容をまとめたものです。
舘野太朗「民俗藝能の大正―民衆藝術・ページェント・郷土舞踊―」『都市民俗研究』24、2019年2月。

2019年1月17日木曜日

芸能文化研究会第12回研究会

芸能文化研究会で報告します。
芸能文化研究会のブログはこちら


第12回研究会を下記の通り開催いたします。

日時: 2019年3月9日(土)14:00~
於 :早稲田大学戸山キャンパス39号館4階 第4会議室
   (新宿区 戸山1−24−1)

報告1:舘野太朗
「笹原亮二「ある民俗芸能家の肖像―永田衡吉の仕事を巡って―」を読む」
 笹原亮二「ある民俗芸能家の肖像―永田衡吉の仕事を巡って―」は、民俗芸能研究の会/第一民俗芸能学会(以後、「第一」と表記する)で行われた報告をもとに、『藤沢市史研究』25(1992年)に発表された論文である。のちに笹原亮二『三匹獅子舞の研究』(2003年、思文閣出版)にも収録されている。永田衡吉(1893~1990)は、劇作家として活動するかたわら、小寺融吉とともに「民俗藝術の会」の幹事を務めるなど、草創期から民俗藝能の研究と実践に関わってきた。太平洋戦争後の民俗藝能研究をリードした本田安次(1906~2001)よりもひとまわり年長であり、生涯、劇作家を名乗り続けた永田は、「正しい民俗芸能研究」の確立を目指した「第一」からすると、格好の標的であったのかもしれない。本報告では、民俗藝能の実践に着目して、笹原による永田批判の再検討を行いたい。

報告2:小林敦子(明治大学アジア太平洋パフォーミングアーツ研究所)
「観光化されなかった「阿波おどり」-「津田の盆踊り」の位置づけの変遷―」
 「阿波おどり」は、徳島市中(城下町)の盆踊りに昭和初期からの観光政策によりつけられた呼称である。元来は盆の時期になると老若男女が様々な集団を組み、にぎやかなお囃子に合わせ踊りながら通りを練り歩く形式であった。徳島県内の吉野川に沿った地域にも、徳島市中の盆踊りと同様の盆踊りが行われていた。「阿波おどり」は観光政策により観客に見せるショウとなり、即興的な自由な踊りから、「女踊り」および「男踊り」という様式が確立し、踊りの動作を揃え、様々なフォーメーションを組む群舞となった。吉野川地域の盆踊りも、また戦後に全国約60カ所で取り入れられた「阿波おどり」祭りでも、市中の「阿波おどり」が手本とされている。
 この中で徳島市東部沿岸の津田地区の「盆(ぼに)踊り」(注:「ぼに」は方言)は特異的で あり、市中の盆踊りの観光化に追随することなく、戦後も機知に富んだ唄と自由な踊りが伝承されていた。しかし津田地区の住民も次第に市中の華やかな「阿波おどり」に参加するようになり、昭和40年代には衰退した。その後民俗芸能保存政策の潮流により昭和61年に保存会が結成され、津田地区を中心に盆の時期だけではなく各種イベントで公演を行っている。保存会の結成時には津田地区の風習を基に海難事故で亡くなった人の霊を呼ぶ儀式が構成され、踊りの前にはこの儀式が行われており、「津田の盆踊り」は精霊踊りと位置付けられ、ショウ化した「阿波おどり」で失われた信仰を保持していると表象されている。本発表では「阿波おどり」の変容に伴う「津田の盆踊り」の位置づけの変遷をたどり、民俗芸能の機能について考える。

議論への積極的な参加を歓迎します。
事前に以下のアドレスまでメールをいただけると幸いです。
geinoubunka〇gmail.com(〇を@に変えてください)

2019年1月7日月曜日

名古屋の歌舞伎系劇団

スーパー一座(1979~2008)
 主宰:岩田信市・原智彦
 指導者:市川升十郎

名古屋むすめ歌舞伎(1983~)
 主宰:市川櫻香
 指導者:市川梅香、十二代目市川團十郎

南山歌舞伎(2005~2016)
 主宰:安田文吉
 指導者:中村熊昇

名古屋こども歌舞伎(2009~)
 主宰:安田文吉
 指導者:中村熊昇

ハラプロジェクト・パンク歌舞伎(2010~)
 主宰:原智彦

東海学園歌舞伎(2017~)
 主宰:安田文吉
 指導者:中村熊昇

2018年12月25日火曜日

スーパー一座と市川升十郎、地芝居。

スーパー一座が市川升十郎の指導を仰いでいた、という話。市川升十郎は、市川少女歌舞伎劇団の指導者として知られる。劇団が商業公演を撤退したのちは、劇団員とともに中部地方を中心に地芝居の師匠として活動していた。スーパー一座成立には、誰にでも歌舞伎を教えてくれる升十郎のような存在が重要だったのではないか。スーパー一座から地芝居の竹本が出たという記述も、同時代演劇と伝統演劇の繋がり方として注目に値する。以下引用。

岩田信市「ロック歌舞伎と大須オペラ」(『自然と文化』77、2005年1月) 
 手短かに述べた上記のような一座の歴史から、もうお解りかと思うが、我々の求めていたのは伝統の破壊ではなく、むしろ伝統の復活である。ただ、形骸化した様式にとらわれない、というだけのことだ。セリフも台本も自由にいじるが、決してパロディ風に現代化したり、流行のアングラ芝居風にアチャラカにふざけたりはしない。あくまでもオーソドックスである。演技も一座結成以来、かつての少女歌舞伎の指導者、市川升十郎師に型の指導を受け、今でも年一本ずつ、義太夫狂言の指導をあおいでいる。役者の基礎訓練として始めた義太夫節の練習の中から育った竹本団勇は、今ではこの地方で盛んな農村歌舞伎の太夫として、引っぱりだこの欠かせない存在となっている。

岩田信市、大須新歌舞伎座を語る。

岩田信市(1935-2017)は、1960年代に名古屋を中心に活動した前衛藝術集団「ゼロ次元」の中心メンバーとして知られる。1979年に「ロック歌舞伎スーパー一座」を結成し、2008年まで大須演芸場で「吉例師走歌舞伎」を上演する。「スーパー一座」の原点には大須新歌舞伎座で見た小芝居の記憶があったらしい。以下引用。

岩田信市「ロック歌舞伎と大須オペラ」(『自然と文化』77、2005年1月)
 今でこそ歌舞伎は完全に様式化、古典化されているけど、私が歌舞伎に興味を持った戦後間もない頃はまだまだ歌舞伎も生きていて、盛んに新作が上演されたり、忠義や義理人情の中に新しい解釈が注入されたりして、どちらかというと、思想的、リアリズム的方向が追求されていた時代だ。
 「様式美にたよる方向こそが歌舞伎をだめにする」といわれている時代に「様式美こそが歌舞伎だ」という岸田劉生の『歌舞伎美論』を読んで我が意を得たりと大いに感動した。世の中はこの本をまるで否定していた。戦後、すべての文化がアメリカナイズされた中で劉生の東洋美に目覚めた少年の僕は、そのことが納得できず、デロリとした美に憧れていたものだ。
 ところが、その憧れの歌舞伎が、名古屋の下町、大須にあった。昭和二十七年、僕の家の裏に生まれた新歌舞伎座である。当時としても、もう珍しい歌舞伎主体の小屋で、いわゆる小芝居が常打ちされていた。嵐三五郎、関三十郎などという、今は消えてしまったが、江戸時代の大名題の役者が主で若い頃の先代の鴈治郎と共演していた片岡秀郎などという役者は評判であった。「錣引」とか「切られお富」なんぞという珍しい演し物の、ぞくっとするような退廃美に惹かれ、これぞ本当の伝統の江戸歌舞伎だと思った。当時、小芝居唯一の残党として東京の「かたばみ座」が有名であったが、比べてみて、僕は、はるかに三五郎一座の方が素晴らしかったと思っている。しかし、この反現代的歌舞伎一座も、その小屋も、結局時代に抗することはできずに何年か続いた後につぶれてしまったのだが、僕の中には、この時の歌舞伎のイメージが、強く焼きついていて、明るく、華やかなだけでこくのない昭和歌舞伎についてゆくことができず、結局歌舞伎は見なくなってしまった。